この話、実はずっと昔から思っていたことなのですが、今回改めてそう思うことがあってちょっと論じてみようかと思いつきました。
よく夫婦とか恋人同士とかで「似ている」人たちっていますよね。
顔が。
ボクの知人でも2、3いますし、よく聞く話です。で、そんな折によく出てくる話で「ずっと一緒にいると顔がだんだん似てくる」というのがあります。かなり非科学的な話ですが意外とうなずけてしまっていませんか。
人間の顔というのは確かに微妙に変化はします。歳を取ったとか、痩せた太ったとか、そういった当たり前の事情を別にしても、なんとなくイキイキとしてたりするとその表情に輝きを見せるなんてことがあります。しかし、そういった変化は変化としても、それが連れ合いの顔に近づくなんてことがあるのでしょうか。
誰でも自分の顔のことは細部までよく知っています。どんなに近い存在の人よりもです。(※念の為補足すれば、これは「自分では自分の動いてる姿を見えないじゃないか」という反論を楽しむ話ではなく、自分の顔の仕組みの良いところも悪いところも他人よりもよく把握しているということの確認です)
そりゃ生まれてからずっと鏡で見てきてるのですから当たり前ですよね。でもここで見逃せないのは、そこには自分だけの常識があるということです。例えばまゆ毛が非常に濃い人がいたとして、その人は鏡の中では常にまゆ毛が濃いわけです。そんな人生の中で「まゆ毛というものはこれくらい生えていて普通である」という常識ができるのです。もちろん他人からも常に「君はまゆ毛が濃い」と言われて生きてきたでしょうから対外評価として自分が「まゆ毛の濃い人」ということは認識しています。しかしだからと言って現実に生えているものは仕方ないという境地に落ち着いているのです。決して「自分のまゆ毛は非常識ではない」という意味で容認しているんですね。問題はこの後、その「まゆ毛が濃い」ということが好きであるか嫌いであるか。仮にここが好きであればチャームポイントであり、嫌いであればコンプレックスとなります。好きでも嫌いでもなく、このまゆ毛に関してはなんにも気にしていないという人もいるでしょう。それはまゆ毛に関しての話であり、他の箇所ではまた同じ問題と遭遇したりします。
まずは「まゆ毛」としてみましたが、これは体中すべてのパーツに当てはまることです。とりわけ人間は顔に対して興味がある生き物ですので、今度は顔の印象を決定づける最も大きな要因の「目」なんかで考えてみてください。
もし自分の「目」がとても気に入っていたとしましょう。つまりはチャームポイントなわけですね。自分の常識の中で「合格」を出しているということです。そうするとそれは「好み」であるとも言えるわけです。これは他人に対しての「好み」にもつながる場合もあると言えるのではないでしょうか。異性に対する絶対的に「好み」があるのは当然ですが、その幾つかある好きな顔の種類の中に自分の顔と同カテゴリーに属する顔も入れている可能性があるのです。無論ここで言っているのは、あからさまに似ている顔ではなく、他人にはうまく説明のつかないような微妙な類似なのです。「彼女の目とオレの目、なんとなく似てない?」なんてクエスチョンしてみたら、多くの人が「そうかなぁ、わかんないなぁ」というようなあいまいなレベルです。
逆の見方として、今度は自分の「鷲っ鼻」がとても嫌いだっとします。いや、嫌いでなくとも、自分の鷲っ鼻については何とも思っていないが自分は他人から鷲っ鼻だと言われていることを知っている人も入れてもいいかもしれません。そういう人が異性の鷲っ鼻に対して特別好むとは思えません。美意識として「鷲っ鼻ではない鼻」を好んでいる可能性がありますから、そういう鼻の持ち主の顔立ちに無意識のうちに惹かれていたりすると想像できるのです。
さて、それらをふまえ巷のカップルを観察してみると、「目じりが似てる」「アゴのラインが似てる」「笑い方が似てる」などなど見えてくるのです。お互いに「好み」として成立していると想像できます。もちろん逆に「唇がひどく別種類」とかいうこともあります。それはそれでどちらか一方が自分の唇があまり好きでないという可能性を導き出せるのです。
もちろんこの強引ともとれる説は、人間同士に関する話ですので絶対的な法則ではありません。内面が好きだ云々言い出したら収拾つかなくなります。ただ、似てると思えるカップルの半分くらいは当たらずとも遠からずなんじゃないでしょうか。
つまりボクは「ずっと一緒にいると顔がだんだん似てくる」のではなく、最初からどこか似ている顔同士が惹かれていたんではないかと思うのです。
だらだらとわかりづらいことを書いてしまいましたが、この話自体がわかりづらい話なので勘弁してください。
小池栄子と熱愛中の坂田亘氏